風の谷の板

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ナウシカにも墓所にも共感できない1 虚無

2015/02/19 (Thu) 01:36:34

はじめまして。
私が風の谷のナウシカを読んで感じたことを率直に書かせていただきます。
一番心に残ったことは、(誤解かもしれませんが)「ナウシカも墓所も自分の好みを暴力的に強要している」ということです。

墓所の主張をまとめると、
『腐海やオームを使って世界を綺麗な環境にし、その後穏やかな人間を誕生させよう。
汚染世界にある程度耐えられる体に作り替えられた改造旧人類ナウシカ達も綺麗な環境に適応できるように改造を緩やかに元に戻し、穏やかに過ごせるように精神も緩やかに改造しよう。
そうしないと君たち改造旧人類は腐海の尽きる時に綺麗な環境に適応できず滅びてしまうよ。それ以前に私が漏らす技術を濫用して滅びてしまうかもしれない。だから協力しなさい。そしてその時が来れば穏やかになる改造を受け入れなさい。邪魔するのなら死になさい。』
だと思います。

それに対してナウシカの主張は、
『清浄と汚濁こそ生命。苦しみや悲劇や愚かさも人間の一部だからなくしてはいけない。それがあってこそ苦界にあっても喜びや輝きがあるのだから。
生きることは変わることだ。お前たちには予定があるだけで変われない。
生死を予定すること、生命を弄ることは生命や自然に対する冒涜だ。
私達が滅びるか滅びないかはこの星が決めることだ。それは虚無ではない。
神などなくても私達は世界の残酷さと美しさを知ることができるのだ。
それが分からない醜いお前たちを私たちは必要としない。それでも私たちに干渉しようと言うのなら穏やかな人類の卵もろとも死になさい』
だと思います。

この両者の主張に、腑に落ちない点が私にはいくつか感じられます。それは、作者の宮崎駿が『人間の活動』と『自然・生命』を分けた二元論で物事を考えているように思われることからのものです。

私が考えるに、人間や人間の活動も自然・生命活動の一部です。なぜなら人間は『この星という自然』に生まれたからです。ですから人間の活動と自然・生命活動を切り離して考えることこそ、人間の主観に重きを置いた(宮崎駿流に言うならば)「人間の傲慢な考え方」であると思うのです。(そもそも人間の活動と自然・生命をきれいに分けることなどできませんし、できたとしてもその基準はあまりに主観的で抽象的で説得力に欠けるものになるでしょう。)       

「環境破壊」と人間が呼ぶ行為も、生物のDNAを弄って性質を変えることも人間の活動であり、同時に自然・生命活動の一部なのです。核戦争が起こって人類が滅亡し、地球が放射性物質だらけになったとしても、それは人間の活動の結果でありすなわち同時に自然・生命活動の結果に過ぎないわけです。(ひょっとすると宮崎駿はこういった考え方を虚無だと捉えるのでしょうか? しかし彼はナウシカの言う「星にまかせる・返す」といった考え方を虚無とは捉えていません。そこに彼の好き嫌いが見えます。彼はいわゆる「環境破壊」や核戦争、遺伝子操作が嫌いなのでしょう。そして人間と自然を(彼の基準で)分けた二元論が好きなのでしょう。)

私は核戦争や人類滅亡を肯定しているわけではありません。ただ、人間が何をしてどんな結果を出そうともそれは言わば星が決めたことだと言いたいのです。人間は星と相対するようなものではなく、単に星の一部なのですから。
(続きます)

ナウシカにも墓所にも共感できない2 虚無

2015/02/21 (Sat) 08:44:27

そもそも人間は鋭く長い爪と体毛を捨て、器用な手先で服を作り環境に適応しようとしました。火を見出して食中毒の危険性を減らし細菌だらけの環境に適応しようとしました。刃物を作ったりして農作業を効率的にし、厳しい自然に適応しようとしました。(当たり前のことですが刃物も火も様々な「使いよう」があるわけで、使いようによって人間に有益であったり害悪であったりします。核だって「使いよう」かもしれません。)
 そういったこれまでの進化でさえ、人間が進化圧に促されて『自分自身や自然・生命を弄った結果』だと言えます。それは同時に自然・生命活動の結果でもあるのです。
 
それなのに、なぜナウシカや宮崎駿は近年の再生医療に垣間見えるようなDNAを弄ること等を「生命への冒涜」と蔑視するのか疑問です。同じ理屈で体毛を捨て服を着たり眼鏡をかけたりする(作中でも描写されていました)のも「自然や生命への冒涜」ではないのでしょうか? 動物や自然を加工することで料理したり楽器を作って音楽を楽しむといった人間の文化的活動(作中でも描写されていました)も「自然や生命への冒涜」とは考えないのでしょうか?
 要するに、生命が変わることも人の手で変えることも、どちらも星・自然の所作なのです。それに対する人間の感覚は単なる『好みの問題』に過ぎないのです。人間の活動は星の一部であり二元的に相対するものではないからです。(自然との共生などといった言い方も二元的です。そもそも人間の活動が自然の一部であり、自然災害で人が死んだり、人間の活動によって他の種が滅亡したりすることさえも星・生命活動の一部なのです。あとは好みの問題です。) 

しかし、ナウシカは人間と星・自然を自分の基準で分断し「人間の活動、と自然・生命」という二元論を展開、加えて、「服を着たりオームの殻を加工したりとか、そういう進化は全然OKだけど、DNAを弄るとか生死を予定するのはダメ」と自分の好みの理論を展開しそれを暴力的に強要しました。
 この漫画は、結局のところナウシカ(=宮崎駿)の『好き嫌い』理論を展開しているだけのものなのではないかと思います。ならば、耳触りのいい(?)宮崎駿(=ナウシカ)の物言いに共感する人達は、彼の催眠術にかかっているようなものです。もし盲信した時には「彼の書いた経典を信仰している」とも言えます。

この世界、すなわち人間という存在を内包した自然世界には、様々な価値観があります。しかし、それを強要したり否定したりしてはいけないと思います。共存する方法を模索すべきです。
だから墓所とナウシカは同レベルで横暴だと感じました。結局好き嫌いで暴力を使うからです。この漫画のラストは、(簡潔に言えば)人間と人間の清らかさを好み、そこに重きを置いた墓所の信仰と、清濁併せ持つ生き方と前述の二元論の上での自然・生命を好み、そこに重きを置いたナウシカの信仰、価値観同士がぶつかり合った宗教戦争のようでした。

墓所はナウシカ達やその他改造旧人類の希望や意思を尊重すべきだったし、ナウシカも墓所や他の改造旧人類の希望や意思を尊重すべきでした。ナウシカもその他改造旧人類も墓所も、お互いの理想とする気持ち、信念、精神を共存させる方法を模索するべきだったのです。
それが叶わなかったのであれば、ナウシカは物語の最後にせめて、(虫使いを騙したことに罪悪感を感じるだけではなく)自分の好き嫌いを押し通して墓所と穏やかな人類の卵を破壊したことを恥じ、自身の横暴さに人として罪悪感を感じるべきでした。

繰り返しになりますが、人間が何をしてどんな結果を出そうともそれは星・自然の所作です。人間は星と相対するようなものではなく、単に星の一部なのですから。
しかし、価値観の暴力的強要は、自然や星といった大きな観点とは関係なく『人として』本来許されないことです(理想論ですが)。
墓所やナウシカの主張は、信仰の名のもとに価値観の相容れない者を暴力的に排除する宗教戦争の理念と同様のもので、私の胸中には残念な気持ちが生じました。

以上が、この漫画を読んでの私の今現在の感想と考えられたことです。長文乱文失礼いたしました。皆様はどう思われますでしょうか?

Re: ナウシカにも墓所にも共感できない3 虚無

2015/02/21 (Sat) 09:24:53

ただ、墓所は
こっそりと自分の価値観を緩やかに強要しているので、より卑怯だと感じました。
(しかし、巨神兵の強大な暴力を用いたナウシカも卑怯ではあるかと思います。)
それは私の好みの問題かもしれませんが。

Re: ナウシカにも墓所にも共感できない ACE@管理人室

2015/02/21 (Sat) 11:26:12

はじめまして、管理人のACEです。
熱の入った書き込み、ありがとうございます。
スレッドが3つに分かれていましたので、勝手ながらひとつにまとめさせていただきました。

>作者の宮崎駿が『人間の活動』と『自然・生命』を分けた二元論で物事を考えているように思われる~
拝見した所、この一節がご意見全体の起点となっているようですね。
宮﨑駿が『人間』と『自然』を分けて考えている、と主張されていますが、その根拠が虚無さんの『印象』以外に示されておらず、前提として成り立っておりません。
そもそも、宮﨑駿が『人間』と『自然』を分けて考えている、というのは誤りです。
ナウシカの「星にまかせる」という言葉にも表れているように、人間を自然の一部として認識し、最終的な生存の決定権を自然に委ねています。
これはつまり、自然の摂理を人間の意思より上に置いていることを示しています。
一方、思い通りの世界を作ろうとする墓所は、人間の意思を自然の摂理よりも上位に置いているので、『自然・生命の冒涜』となります。
この点に留意して、もう一度全編を読み返していただければと思います。

>そもそも人間は鋭く長い爪と体毛を捨て~
別に原始人の選択によっていきなり体毛が無くなったわけではありません。
生活様式が徐々に変化し、それに合わせて身体も徐々に変化したのです。
このように、環境に合わせて自己を変化させるのが『適応』です。
一方、『自然を弄る』というのは、自己に合わせて環境を加工することです。
よって、両者は真逆のことと言えます。

>それなのに、なぜナウシカや宮崎駿は近年の再生医療に垣間見えるような~
これも同様です。

>要するに、生命が変わることも人の手で変えることも、どちらも星・自然の所作なのです。
同感です。
ただ、宮﨑駿が指摘しているのは、人の手で変えることの危険性だと思います。
言うまでもなく、自然は長い年月をかけて徐々に変化してきて、現在のような状態になりました。
何にでも言えることですが、長い時間をかけて変化したものは、短時間で変化したものに比べて安定しています。
人間が環境に及ぼす変化は急激なものなので、それが最終的にどこまで影響をおよぼすのか、あらかじめ知ることは困難です。
事実、これまでに何度も人間は環境保護や生態系保存といった名目で自然に手を加えてきましたが、思い通りには行かなかったり、それどころか別の問題を引き起こしてしまったりという事が数えきれないほどあります。
宮﨑駿は、人間の浅知恵が自然の軽視と人間の過信によるものであると、警鐘を鳴らしているのだと思います。

>この世界、すなわち人間という存在を内包した自然世界には、様々な価値観があります。しかし、それを強要したり否定したりしてはいけないと思います。共存する方法を模索すべきです。
その通りです。恐らく人類のほとんどが同意見でしょう。
しかし、それが必ずしも実現できるとは限らないのも、また事実です。
世界には、宗教・イデオロギー・人種・文化など、様々な違いが存在しており、有史以来、それらは争いの種となってきました。
お互いを尊重し共存するとは、お互いの『譲れない領域』には立ち入らない、という合意です。
しかし、中には「自分たちと異なる考えは一切認めない」という【イスラム国】のような存在もいます。
どうやっても相容れないモノ同士がいて、自己の肯定が相手の存在の否定となってしまう場合、両者の衝突は避けられません。
ナウシカと墓所の対立は、この類のものなのです。
ナウシカはナウシカで自然の摂理に基づいた世界を作り、墓所は墓所で別の大陸にでも新人類のための理想郷を作れるなら、あるいは共存も可能だったかもしれません。
しかし、両者の世界が真っ向から相反するものである以上、存在するだけで相手を否定することになるのです。
『価値観の強要』という言葉の悪印象に囚われているようですが、我々は皆、何かしらの強要を受け入れて生きているのですよ。
法律も然り。宗教も然り。教育も然り。
そして、有史以来、対立の最終段階では常に暴力が用いられてきました。
犯罪を犯した人間が、法律という価値観を強要され、警察という暴力によって自由を剥奪される。当たり前の話です。
そこに綺麗も汚いもありません。
そして、ナウシカも宮﨑駿も、あの結末を美しいものだなんて言ってませんよ。

厳しい書き方をしてしまったかもしれませんが、『風の谷のナウシカ』という作品にはとても奥深い思想が込められているので、ぜひ虚心坦懐な姿勢で繰り返し読んでいただけたらと思います。
それでは、またのご投稿をお待ちしています。

ナウシカにも墓所にも共感できない 虚無

2015/02/26 (Thu) 01:10:52

 管理人様、丁寧なお返事ありがとうございます。それを受けまして再投稿ですが、

>宮﨑駿が『人間』と『自然』を分けて考えている、という根拠が虚無さんの『印象』以外に示されておらず、前提として成り立っておりません。誤りです。 (宮崎駿やナウシカは)自然の摂理を人間の意思より上に置いていることを示しています。一方墓所は、人間の意思を自然の摂理よりも上位に置いているので、『自然・生命の冒涜』となります。

 とありますが、「どちらが上位か?どちらが大切か?」などと考えていることこそが「分けて考えている」ということの根拠です。人間の意思も自然の摂理も同等に世界に存在しているものです。
 両者の間には上下などなく、ただ単に世界の中に自然(と人間が呼ぶもの)や人間(と人間が呼ぶもの)やその他が存在していて、私達人間は主観でものを考えているだけなのです。
 どこまでが自然の摂理でどこからが人間の意思か? どちらかを上位にしたいと言うのなら、どこかで分けなければなりません。
 (両者の区別があいまいな、スペクトラムで上下を示しただけの考え方では、詳細・一貫性・再現性に欠けた機能しか持ち得ないので理念としての価値に乏しく、結果的に(議論に用いたとしても言葉遊びにしかなり得ず)何の説得力もありません。独りよがりの言葉のニュアンスに踊らされるだけです)

 両者を無理矢理分けること自体は可能ですが、その分け方の基準は(宮崎駿やナウシカや墓所のように)あまりに主観的で抽象的になり、説得力に欠けるものになるでしょう。
 そうでないと言われるのであれば、どこまでが自然でどこまでが人間か、(極端な例ですが、豚は自然でトンカツは人間の所作か、眼鏡は自然でレーシックは人間の所作か、人参などの植物から作った食べ物や漢方薬は自然でアオカビから作った西洋医薬品ペニシリンや躁病治療に使われるアルカリ金属(リチウム)は人間の所作か、米に含有される炭水化物は自然で工業的に製造したブドウ糖の入ったお菓子や点滴は人間の所作か、突然変異を利用した品種改良は自然で遺伝子工学は人間の所作か、人体内の炭素やナトリウムや鉄分は自然で塩コショウや貧血治療用の鉄剤は人間の所作か) 好き嫌いではなく、誰にでも納得のいく説明が必要です。
 そのような説明を提示できず、直感や好みでどちらが上位か?どちらが大切か?決める考え方は荒唐無稽であり、必要と感じた時にいざ使おうとしても独りよがりな形でしか機能しません。なんとなくや好き嫌いを元にした考え方で行動しその価値観を強要したのならば、それはイスラム国といったいわゆる狂信者と同じです。
 
 そもそも人間の活動も自然も、合理的に区別したり上下関係の規定などできない、同じもの・同等のものなのです。ナウシカが何をしようと、墓所が何をしようと、地震や火山や核兵器で生態系がいくら破壊されようとそれはすべて世界の結果なのです。
 (『自然の摂理』だの『人間の意思』だの、双方とも単に人間が付けた名前に過ぎません。そしてその定義は人によってあいまいです。その荒唐無稽さに踊らされないためには、名前を付ける前の段階に戻って考える必要があります。要するに人間の言う自然だとか人間だとか何もかもを含め、全てのものはただ世界に存在している「そこにあるだけの境界不明瞭なもの」であり、人間が便宜的に名前を付けて分けただけで、それは時代や各社会に属する人によって異なり、互いに影響し合って常に変わっていくものだと知るべきでなのす。)

>環境に合わせて徐々に自己を変化させるのが『適応』です。環境を加工するのが『自然を弄る』こと。

 とありますが、では木を切って家を作るのはどちらでしょうか? 洞穴を掘って家とするのはどうでしょうか? 蚕から服を作ることは? 川に排尿排便することは? 

>別に原始人の選択によっていきなり体毛が無くなったわけではありません。生活様式が徐々に変化し、それに合わせて身体も徐々に変化したのです。

 とありますが、生活様式が変わったのは自然の結果でしょうか?人間の所作でしょうか? 毛皮を発明したことで生活様式が変わり、その結果体毛が必要無くなったのだとしたらどうでしょうか? また、石を砕いて石器を発明し農業を効率的に行い、やがて鋭い爪がなくなることは『適応』ですか?『自然を弄る』ことですか? 鉄を融かしてネジを作るのはどちらでしょうか? 酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すことは?

 どこまでが管理人様の言われる『適応』でどこからが『自然を弄る』ことなのか、分けて考えられるのでしょうか? 好き嫌いや「なんとなく」ではなく、誰もが納得できる明確な基準はあるのでしょうか?
 いいえ、これも先程の話と同様に、ありません。この世界にあるものは(人や自然含め全て)、お互いに影響を受け与え、変えられ、また変わってきたのです。それは全て星の所作です。
 環境破壊という言葉も、人間に害が及ぶ・しっぺ返しが来ることから作られた人間主観の概念に過ぎません。人の営みは、全て自然を弄ることであるとも言え、また適応であるとも言えるのです。そしてそれら全て、(生命が変わることも人の手で変えることも)全てが星・世界の所作なのです。

 また、恐竜が滅亡したのは隕石のせいだと言われています。地震や津波も突然起こり大きく環境を変化させますね。人間の営みも自然災害も、時に急激な変化をもたらします。長い年月をかけて変化したから安定しているとは限りません。人の営みも自然災害と呼ばれるものも、最終的にどこまで影響をおよぼすのか、あらかじめ知ることは困難です。

>宮﨑駿は、人間の浅知恵が自然の軽視と人間の過信によるものであると、警鐘を鳴らしているのだと思います。

 確かに慎重であることは大切だと思います。どんな現象も技術も在り方や使い様が重要ですよね。(もし地震や火山をうまく制御して協調できたならいいですね。)
 火の発見、衣服の発明、住居や農地の開拓、電気の利用法の開発、遺伝子工学、核、すべて長所と短所があり使い様が大切なのです。(ナウシカ達も衣服を着て、火を使って、他にも色々やってます。) その存在そのものを(例えば)悪だとか生命に対する侮蔑だとか冒涜だとか汚物だとかいった感情的な名前を付けて否定するべきではなく、その「使い方」を我々にとって有意義な結果が出るように、慎重に考えるべきなのです。

 宮崎駿は遺伝子工学と呼ばれる技術に危険性と嫌悪感を感じ、それに警鐘を鳴らしたいようですが、その理由を、自然の摂理とやらを人間の意思とやらの上に置き遺伝子工学を蔑視することで説明しようとしている様ですね。荒唐無稽な感情論です。そのため全く説得力が感じられません。(例えば遺伝子工学によって生態系が乱れ?、人間に害が及ぶ?とかいう予想を再現性を持って証明することで警鐘を鳴らすのであれば理解・納得できますが。)
 両方とも星の所作であり明確な区別などできないものなので、上下を論じることなど結局のところ論理性に欠けた好みの問題に過ぎず、私にはまず共感しかねるのです。


 また、価値観の強要という言葉についてですが、
 法律や宗教や教育といった価値観を、虚心坦懐に考えて納得して受け入れているのであれば、それは強要されたわけではありません。
 それに、国家という共同体の中で与えられる法律や宗教や教育に納得いかなければ、それらを侵す前になんとかその共同体を抜ければいいのです(それが難しい場合もありますが)。共同体を抜けて、自分に合ったところへ行くか、新しく作るか、一人で生きるかすればいいのです。その余地があるのならば完全な強要にはなり得ません。共同体の法・秩序維持を名目とした警察という暴力制度に関しても同様です。毎日マリファナが吸いたいならマリファナが違法でない国へ帰化すればいいのです。毎日覚せい剤がやりたいならそれが違法でない国を探して帰化すればいいのです。(もしくはそれが可能になるように法律を自らの手で変える活動をすればいいのです。) その選択の余地は(先進国では?)与えられています。
 
 どんな価値観であっても内省を重ね、納得して受け入れたのであるならば、強要されたわけではありません。属する共同体、生まれ落ちた共同体によっては、内省や納得しての受容が困難な場合もあるかと思いますが、そもそも人の心には強要から逃れる余地が基本的にはあるのです。人の心を完全に縛り、コントロールすることは現在ではまだ不可能だからです。
 しかし、暴力を用いればその場での形式上のコントロールは可能です。(そのまま破壊・殺してしまうことすら可能です。) 私が特に悪印象を感じるのは逃げ場を与えない・暴力と関連した強要に対して、です。


>どうやっても相容れないモノ同士がいて、自己の肯定が相手の存在の否定となってしまう場合、両者の衝突は避けられません。ナウシカと墓所の対立は、この類のものなのです。

 そうですね。お互いの存在を否定→価値観の暴力的強要→衝突して破壊の応酬に至ったわけですね。
 ですからやはり、ナウシカにも墓所にも共感できませんでした。両者とも価値観を強要し、あげくの果てに殺し合ったからです。
 両者とも、もっと譲歩する余地がありました。今後お互いの存在を否定せずバランスをとって共存していく方法はあったと、私は考えます。
 ナウシカ達は「変わっても変えられても生きれば良い」(最悪の場合、技術の使い道を自分たちの誰かが間違え、殺し合って滅んでもしょうがない」)と主張していたわけですし、共存する方針の果てに、腐海が尽きた後の世界に適応しても弄られて生き残ったとしても、両者(ナウシカ達と墓所・穏やかな人類)ともおそらく「自衛」はできたでしょう(墓所は穏やかではない人類の侵略から穏やかな人類を守る「番人的な存在」を作れたはずです)。
 とはいえ、物語上の未来の予測など所詮机上の空論ですが。


 あと、(ナウシカ(=宮崎駿)は墓所を「最も醜いもの」などと言っていましたが、) 私はあの結末を綺麗とも汚いとも美しいとも醜いとも思っていませんし、言ってませんよ。
 ただ、最後の殺し合い、墓所の殺意とナウシカの殺意が共に残念に感じられ、共感できなかったと言いたいのです。(最後に読者にエンターテイメントとしてのカタルシスを与えるためのものだったのか、定かではないですが) 狂信者同士の、いわゆる憎しみが憎しみを生むような結果に至る争いでしたね。
 それ以前に、前述の理由で彼らの価値観そのものにも全く共感できませんが。


 以上がお返事を受けての私の返事・主張です。いかがでしょうか?
 ぜひ虚心坦懐な姿勢で私の(乱文で刺々しいかもしれませんが)投稿文を繰り返し読んでいただき、内省の後の納得をいただければと思います。そうでなければ、どの主張がどのように不合理か、ご教示いただければ幸いです。
 お返事お待ちしています。

Re: ナウシカにも墓所にも共感できない1 - Ace@管理人室

2015/03/01 (Sun) 12:53:02

虚無さん、前回にも増して気合いの入った書き込み、ありがとうございます。
スクロールしてて気が遠くなりかけましたが、頑張って回答していきたいと思います。


>「どちらが上位か?どちらが大切か?」などと考えていることこそが「分けて考えている」ということの根拠です。人間の意思も自然の摂理も同等に世界に存在しているものです。

上下関係が成り立つ=乖離している、という事ではありません。また、同じ集団内に存在すること=同等、でもありません。一つの会社組織でも上司と部下という上下関係があり、私たちが社会のルールに従うのも、私たちの自由意思よりも社会のルールがーーー基本的にはーーー優先順位の上位にあるからです。


> 両者の間には上下などなく、ただ単に世界の中に自然(と人間が呼ぶもの)や人間(と人間が呼ぶもの)やその他が存在していて、私達人間は主観でものを考えているだけなのです。
 どこまでが自然の摂理でどこからが人間の意思か? どちらかを上位にしたいと言うのなら、どこかで分けなければなりません。(中略) 両者を無理矢理分けること自体は可能ですが、その分け方の基準は(宮崎駿やナウシカや墓所のように)あまりに主観的で抽象的になり、説得力に欠けるものになるでしょう。

主観にとらわれ境界認識があやふやになるのは、全体の構造を客観的に理解できていないからでしょう。答えを言ってもいいのですが、構造はとてもシンプルですので、頑張って考えてみてください。ヒントは、『それが成り立つまでの過程を見ること』です。

ここまで書いてきてようやく見えてきましたが、どうも虚無さんは自然を『無機的なもの』と認識してらっしゃるようです。だから、自然界に存在する物を加工することや存在しない物を生み出すことは自然か否か、といった少々的外れな論理を展開してらっしゃるのではないのでしょうか。
自然とは、もちろん地表や水・大気といった無機物も含みますが、その主体は生態系にあります。つまり、自然に手を加える、というのは、生態系の在り方に手を加えることを意味するのです。

自然、あるいは生態系とは、一つの意思によってそう作られたものではなく、個々の生物が利己的な目的で活動した結果、長い年月をかけて形成された様相に過ぎません。その『個々の生物』に人間を含むか含まないかが、人間を自然の一部と見るか、別の枠組みとして捉えるかの違いとなってきます。
環境保護という概念も、自然は常に変化し続けるという事を理解していない故の発想と言えます。ただ、実際に環境保護に取り組む人の多くは、環境が変化することで実害を被る可能性のある、いわば当事者たちなので、彼らの行動もある意味、自然と言えるでしょう。
仮にそれが「自然とはこうあるべき」という一方的な価値観によってなされたなら、それは個々の生物の活動に対する冒涜と感じます。
まとめるなら、ただ世界が存在し、人間はその一部に過ぎない、というのが宮崎駿の考えです。人間も自然の一部なのだから人間のやる事も自然の成り行きとして認識すべきだ、と。それに従えば、『神の信託管理人』気どりで生態系を好き勝手に弄る行為は人間の思い上がりだ、となる訳です。なぜなら、人間は自然(=人間を除いた世界)を超越した存在であり、それ故に世界を管理する資格と義務がある、というのが墓所(を建造した者たち)の考えだからです。『人間の想像した理想』か、『原初より積み重ねられた自然の摂理』か、果たしてどちらに重きを置くべきなのかーーーそれがナウシカと墓所の対立の本質です。ただ、そこから更に一歩進んで、その人間の愚かさも自然の一部であり、そうして加工された生物や生態系が、それでも生き残っていくのならば、それは自然の摂理に適っているということになります。宮崎駿は、ナウシカや蟲たちのような加工された生物が、それでも「生命はそれ自身の力で生きている」と言って生き続けようとする姿を、『自然と人間の対立を止揚する答え』として描いているのです。


>宮崎駿は遺伝子工学と呼ばれる技術に危険性と嫌悪感を感じ、それに警鐘を鳴らしたいようですが、その理由を、自然の摂理とやらを人間の意思とやらの上に置き遺伝子工学を蔑視することで説明しようとしている様ですね。(後略)

それは誤解だと思います。確かに『不自然』な技術に対しての懸念はあるようですが、決して蔑視はしていないと思います。なぜなら、ナウシカや王蟲たちも遺伝子工学によって生み出された『不自然』な生物だからです。


>お互いの存在を否定→価値観の暴力的強要→衝突して破壊の応酬に至ったわけですね。
 ですからやはり、ナウシカにも墓所にも共感できませんでした。両者とも価値観を強要し、あげくの果てに殺し合ったからです。
 両者とも、もっと譲歩する余地がありました。今後お互いの存在を否定せずバランスをとって共存していく方法はあったと、私は考えます。

価値観を強要したのは墓所で、ナウシカはそれを拒絶しただけですよ。そして、拒絶された墓所は、ナウシカの存在が計画の致命的な障害になると判断し、彼女を殺そうとした。ナウシカも、墓所は壊す以外に止める方法が無いと判断し、破壊した。もし、あの時点でもまだ共存が可能だったと本当に思うなら、失礼ながら、両者の立場を十分理解してないか、あまりにも現実感覚が乏しいと言わざるを得ません。対話や非暴力で対立を解決できるのなら、もちろんそれがベストですが、現実には様々な制約があって、それが不可能な状況が多々あります。問答無用で自分の大切なものを奪いに来た相手にどう対処しうるのか、本当に大切なものを持っている人間なら想像できると思います。

ナウシカに共感できなくても、それはそれでいいんです。ある意味、非常に議論を呼ぶ結末ですからね。ただ、あくまでも今の虚無さんの考え方・感じ方が絶対ではない、と再考の余地は残しておいてください。そして、繰り返しになりますが、この作品を出来るだけたくさん読み返して、考え続けてください。
刺々しいのはお互い様なので気になさらず、またのご意見お待ちしています。

Re: ナウシカにも墓所にも共感できない - 虚無

2015/03/15 (Sun) 15:39:01

 管理人様、丁寧なお返事ありがとうございます。それを受けまして再投稿ですが、

>上下関係が成り立つ=乖離している、という事ではありません。また、同じ集団内に存在すること=同等、でもありません。一つの会社組織でも上司と部下という上下関係があり、私たちが社会のルールに従うのも、私たちの自由意思よりも社会のルールがーーー基本的にはーーー優先順位の上位にあるからです。

 とありますが、上下関係を機能させようとした場合、その境界を明確にしなければなりません。会社組織の上司と部下という例に倣うならば、何か問題が起こった時に「上司の責任なのか部下の責任なのか、はたまた双方の責任なのか」、その枠をはっきりさせて仕事の持ち分・責任の所在を明確にする考え方が前提にないと機能しません。
 個人と社会の例ならば、個人の自由意思よりも社会のルールが(基本的に)優先されるためには、「どこまでが個人の自由で公共の福祉に反しないのか、どこから社会のルールに反しないのか」、その境界を明確にする、もしくは議論されるという前提が必要です。(実際に法を用いて議論したり、または場合に応じて法を変えたり作ったりして追及されます。)
 上下関係があってそれが誰の反対もなく機能するためには、その境界に関して誰にでも納得できる基準、明確な基準を考えることが必要なのです。(もちろん「誰にでも」というのは理想論ですが)。それがなければ独りよがりな机上の空論であり、現実的観点から見て機能性の損なわれた荒唐無稽な価値観です。同調するのは狂信者のみであり、論じることに意味はありません。ただし権力があれば押し通すことは可能でしょうが。
 (前回投稿文にも、『両者の区別があいまいな、スペクトラムで上下を示しただけの考え方では、詳細・一貫性・再現性に欠けた機能しか持ち得ないので理念としての価値に乏しく、結果的に(議論に用いたとしても言葉遊びにしかなり得ず)何の説得力もありません。独りよがりの言葉のニュアンスに踊らされるだけです』と書いてあります。きちんと読まれていますでしょうか?)

 (またまた理想論ですが、)「誰にも反対されない機能」に結びつかない考え方は説得力に欠けると私は考えます。なぜなら、誰かに反対されるからです。説得力のある上下関係、はたまた「より重視すべきもの」を論じ上げたいならば、せめてその境界をなんとなくではなくきちんと考える姿勢が最低限必要なのです。
 また、言葉足らずでしたが、「同じ集団内に存在する=同等」だと言いたいわけでもありません。そもそも、「同等」だとか「比べる」という考え方すら人間の勝手なものなのですから。この世界に存在するもの全ては本来、「比べる」とか「同等」だとかいう人間の言葉で測る以前のところで、比べられないものだ、と言いたいのです。

>ここまで書いてきてようやく見えてきましたが、どうも虚無さんは自然を『無機的なもの』と認識してらっしゃるようです。
 いいえ、違います。「無機」だとか「有機」だとかも、人間の作った言葉です。人間が世界にあるものを分別するときに作った考え方の一つに過ぎません。私は世界を無機とも有機とも捉えていません。その言葉ができる前の状態に立ち返って考えているからです。

>主観にとらわれ境界認識があやふやになるのは、全体の構造を客観的に理解できていないからでしょう。答えを言ってもいいのですが、構造はとてもシンプルですので、頑張って考えてみてください。ヒントは、『それが成り立つまでの過程を見ること』です。
>自然とは、もちろん地表や水・大気といった無機物も含みますが、その主体は生態系にあります。つまり、自然に手を加える、というのは、生態系の在り方に手を加えることを意味するのです。

 とありますが、
「自然の主体が生態系にある、もしくは自然の主体を生態系に置いて考える」という考え方がすでに、ナウシカや宮崎駿や、管理人様の好みに過ぎません。生態系や無機物などと言った言葉も人間が作った考え方に過ぎないわけで、そもそもその境界もはっきりと定義できない人類が「自然の主体が無機物ではなく生態系にある」などと言うこと自体おこがましい限りです。(そうでないと言われるのであれば、一貫性のある『生物』の定義と、生物と無生物の境界を示してください。炭素を含有すれば生物でしょうか? ウイルスは生物でしょうか? RNAは生物でしょうか?)
 人間が作った言葉のイメージに囚われているとなかなかそこから抜け出せないかもしれませんが、頑張って考えてみてください。どこからどこまでが生態系で、どこからが無機物でしょうか? そもそも『生物・生きている』とはどういうことでしょうか? 脈や脳幹反射があれば生きていますか?なければ生きていないのでしょうか? 『生態系』とはなんでしょうか? 人間が一般的に言う『生物』の所作が人間の目から見てなんとなく循環しているように見えれば生態系ですか? そこに客観性はあるでしょうか?
 そういった「人が作った曖昧な概念に囚われる前の頭」に頑張って戻ってから、もう一度考えてみてください。曖昧な概念には機能性も説得力も期待できません。

 「生物:非生物」、「適応:自然を弄る」、「原初より積み重ねられた自然の摂理:人間の理想」、といった言葉が相違するように感じられるのも、全て人生の過程で刷り込まれた人工の言葉の概念に囚われているからであり、そこから抜け出せば実は境界不明瞭なものと分かるはずです。
 (そうでないと言われるならば、生物と非生物の境界、「自然の摂理」と「人間の意思」の境界、および「適応」と「自然を弄る」の境界を明確に教えていただけますでしょうか? 例えば、石から石器を作って農作業を効率的に行い、作物を管理することで(人の言う)生態系に影響を与え、比較的多くの収穫を得て、だんだんと鋭い爪がなくなっていく過程があったとすれば、それは「適応」なのか「自然を弄る」なのかどちらでしょうか? その基準はいかように設定できるのでしょうか?)
 それ故に、一方の重要性を論じたとしても、曖昧な言葉のイメージに振り回された客観性のない好き嫌いを主張しただけに過ぎず、一貫性のある機能などしません。機能しない考え方は論じるだけ無意味であり前述の理由で説得力に欠けます。(「自然と人間が対立している」などと考えるのも人間の主観です。自然がどうとか人間がどうだとかの言い回しをするのは人間だけなのですから。)

 人間の言動はすべて世界の一部であり結果です。
 「超越した存在・神の信託管理人気取りで生態系を好き勝手に弄る」などと言われる行為すら、世界の一部であり結果なのです。それを、「人間の理想よりも原初より積み重ねられた自然の摂理に重きを置くべき」などという曖昧な言葉のイメージに振り回され、かつ好みに依った考え方に則って、『人間の思い上がりだ』などと蔑視するのは単なる荒唐無稽な感情論です。曖昧な故に機能性に欠けた説得力のない主張です。ですからナウシカの主張も墓所の主張も単なる好みであり、説得力を感じられません。
 さらに、、物事の存在そのものを(例えば)悪だとか生命に対する侮蔑だとか冒涜だとか思い上がりだとかいった感情的な名前を付けて否定することは、単に自分の好き嫌いを押し通そうとしているだけの独善的な言動に過ぎないのです。そうではなく、その「在り方」「使い方」が我々人類にとって有意義な結果に至るかどうかを慎重に考えて議論した後に判断・利用すべきなのです。

>それは誤解だと思います。確かに『不自然』な技術に対しての懸念はあるようですが、宮崎駿は遺伝子工学と呼ばれる技術決して蔑視はしていないと思います。なぜなら、ナウシカや王蟲たちも遺伝子工学によって生み出された『不自然』な生物だからです。
 そうですね。
 つまり、宮崎駿は、「神の信託管理人気取りで遺伝子工学を用いて生態系を好き勝手に弄る行為」を思い上がりだと蔑視しているわけですね。繰り返しになりますが荒唐無稽で独善的な感情論です。そのため全く説得力が感じられません。(例えば遺伝子工学によって生態系が乱れ?、人間に害が及ぶ?とかいう予想を再現性を持って証明することで警鐘を鳴らすのであれば理解・納得できますが。『人間は、人間に害が及ぶことはなるべく避ける』はずですしね。)

>価値観を強要したのは墓所で、ナウシカはそれを拒絶しただけですよ。

 確かに、価値観を強要したのは墓所で、ナウシカはそれを拒絶しただけですね。この点は誤解しておりました。ナウシカの側から墓所に赴いている流れに囚われて目が曇っていました。(しかし話は逸れますが、結果としてナウシカは自分の価値観を他の改造旧人類に強要してしまった形でしたね。そこはやはり共感できませんでした。改造旧人類代表?の自覚があるならば、あそこまで墓所に攻撃的な物言いをしなくてもよかったように思います。)

 私が言いたいのは、ナウシカも墓所も説得力に欠ける宗教めいた自分の好き嫌いで行動した、ということです。墓所はさらにそれをナウシカに強要し、ナウシカは拒絶する際に、自分の好き嫌いを結果的にその他改造旧人類に強要してしまいました。
 物事の存在を個人または団体の曖昧な好みに依って感情的に否定せず、我々人類にとって有意義な結果が出るようにその「在り方」「使い方」を慎重に考えるべきだ、と言いたいのです。
 いかがでしょうか? どこか不合理があればご教示いただければ幸いです。
 あと、付け加えですが、私は常に自分の考え方・感じ方を更新したいと考えています。
 ではまた、お返事お待ちしています。

Re: ナウシカにも墓所にも共感できない1 - ACE@管理人室

2015/03/19 (Thu) 05:29:07

虚無さん、こんにちは。

>上下関係を機能させようとした場合、その境界を明確にしなければなりません。会社組織の上司と部下という例に倣うならば、何か問題が起こった時に「上司の責任なのか部下の責任なのか、はたまた双方の責任なのか」、その枠をはっきりさせて仕事の責任の所在を明確にする考え方が前提にないと機能しません。(以下略)

社会経験を積めば分かる事ですが、そんなものは公務員と一部のホワイト企業にしかありません。ご自身、最後に「ただし権力があれば押し通すことは可能でしょうが」と書かれているように、現実的にはどこでもそういったゴリ押しがまかり通っています。そして、それは決してあなたが想像されているほど例外的なケースではありません。しかし、そういった事を踏まえて言える事は、この議論には意味が無い、という事です。
そもそもの論点は、『作者が自然と人間を別次元で考えているか否か』であったはずです。そこでのあなたの主張は、『二つを上下に分けているから、作者はそう考えている』だったと解釈しています。対して私の主張は、『両者は一つのシステム内の上下構造であり、別個の存在ではない』というものです。主題と関係の無い不毛な論争は哲学科ででもやっていただくとして、ここで取り上げている『自然と人間の間の上下関係』とは、力の優劣や役割的な上下ではなく、ーーー結局、答えを言ってしまいますがーーーこの世界の構造をミクロからマクロに階層的に捉えた時の『枠組みの大小』を意味しています。経験値が乏しい人ほど理論至上主義に陥り、物事を無駄に複雑にして本質を見失ってしまいがちですが、理解とは物事の本質を抽出し、単純化する作業だという事をお忘れなきよう。
ちなみに、前回のスペクトラム云々のくだりにつきましては、失礼ながら独りよがりの言葉遊びであると感じたため読んでません。自分が何を主張してるのか理解してもらえるよう努力するのは主張者の責任ですが、この一文にはその意思が全く感じられません。書いているあなたには意味が分かるのかもしれませんが、一般人から見れば変なポエムでしかありません。レポートとして提出したら落第しかねないレベルですよ。


>また、言葉足らずでしたが、「同じ集団内に存在する=同等」だと言いたいわけでもありません。そもそも、比べるという考え方すら人間の勝手なものなのですから。この世界に存在するもの全ては本来、「比べる」とか「同等」だとかいう人間の言葉で測る以前のところで、比べられないものだ、と言いたいのです。

ここでも主題から完全にズレてしまっていますが、一応お答えします。
『比較』は必ずしも主観的なものではありません。比較基準が客観的なデータなら、その違いは客観的な事実です。さらに言うならば、『比較』とは厳密には数学的な作業なので、たとえ主観的な比較であっても、そこには何らかの差異が存在します。(例えば『女性の魅力』というのは主観的なものですが、その根拠となる顔の形やバストのサイズなどは数学的な要素です)
何やら「人間の勝手な」という表現があちらこちらに散見されますが、どうもそこで思考停止してらっしゃるのではないでしょうか。おそらく、人間の一方的な価値観で優劣を決めるな、と言いたいのでしょうが、全てが「比べられないものだ」とまで言いきってしまうのはさすがに無茶です。そんなのはジョン=レノンとかスマップとかの歌の中だけの話で、実際は比較によってあらゆる存在が個性を獲得しているのです。


>「無機」だとか「有機」だとかも、人間の作った言葉です。人間が世界にあるものを分別するときに作った考え方の一つに過ぎません。私は世界を無機とも有機とも捉えていません。その言葉ができる前の状態に立ち返って考えているからです。

それは何も考えてないのと同じことです。無機・有機はものの活動の状態を形容する言葉であり、言葉自体は当然人間が作ったものですが、概念そのものは自然界にごくありふれたものです。有機的か否かとは即ち、主体的な活動が認められるか否か、という事です。認識の仕方次第で無機とも有機とも捉えられる可能性はありますが、どちらにも取れないなどという事はありません。


>「自然の主体が生態系にある、もしくは自然の主体を生態系に置いて考える」という考え方がすでに、ナウシカや宮崎駿や、管理人様の好みに過ぎません。生態系や無機物などと言った言葉も人間が作った考え方に過ぎないわけで、そもそもその境界もはっきりと定義できない人類が「自然の主体が無機物ではなく生態系にある」などと言うこと自体おこがましい限りです。

そういうのは『好み』とは言いません。上記のは自然を論ずる上での立場を表したものです。一方、『好み』とは感覚であり、論理とは真逆のものです。また繰り返しになりますが、『言葉』とは太古より人類が生活の中で発見した自然界の様々な事象や普遍性を論理的に扱うために便宜上つけた名前であって、その対象である事象や普遍性そのものは人間が作り上げたものではありません。


>人間が作った言葉のイメージに囚われているとなかなかそこから抜け出せないかもしれませんが、頑張って考えてみてください。(中略)そういった「人が作った曖昧な概念に囚われる前の頭」に頑張って戻ってから、もう一度考えてみてください。曖昧な概念には機能性も説得力も期待できません。

「概念に囚われる以前の頭」とは、要するに『動物レベルの思考』の事だと理解されてますか?
そもそも人間の思考とは、感覚や印象といった不明確なものを言葉というツールによって体系立てて整理する作業と言えます。つまり、我々の思考は言葉によって成り立っているのです。あなたは言葉の不完全性を根拠に人間の持つ認識や概念を否定しようとしていますが、『言葉の否定』は『思考の否定』と同じ事なのだと理解されてますか? 論理性を持たない相手と議論が成り立つと思いますか? あなたはここでご自分の主張を展開されてますが、論理を用いて論理を否定しようとしている自己矛盾に気付きませんか?

私たちは何をするにも道具を使います。携帯電話、自動車、冷蔵庫、コンピューター等々、現代的な生活に不可欠なそれらの道具は全て、先人たちが作り上げたものです。それは言葉も同様なのです。絶え間ない観察と思索の結果、世界についての人類の知識は深まり、それに伴って次々と新たな言葉が生まれてきました。言うなれば言葉には、何千年にも渡る人類の思考の歴史が詰まっているのです。
確かに人間の認識・理解は完全ではありません。仰るように、我々の科学はまだ生命という概念を明確に定義する事が出来ていません。そして、おそらく今後もそれは出来ないでしょう。しかし、不完全だからと言って全くの無意味だと言うわけではありません。人類は不完全ながらも自然を理解し、不完全ながらもその知識を活用し、その結果、ここまで進歩する事が出来ました。それは逆を返せば、人間の持つ知識や概念がある程度正しい事の証明であり、また、それがさらに正確になり得る事をも示しています。不完全だから切り捨てるという考えは、まさにあなたのHNである『虚無』なのです。


>(前略) そうでないと言われるならば、生物と非生物の境界、「自然の摂理」と「人間の意思」の境界、および「適応」と「自然を弄る」の境界を明確に教えていただけますでしょうか? (例えば、石から石器を作って農作業を効率的に行い、作物を管理することで(人の言う)生態系に影響を与え、比較的多くの収穫を得て、だんだんと鋭い爪がなくなっていく過程があったとすれば、それは「適応」なのか「自然を弄る」なのかどちらでしょうか? その基準はいかように設定できるのでしょうか?)

基準はその生態系に属しているか否かです。上記の例は、人間も生態系の一部として活動しているのですから、当然『適応』です。仮に人間がそこに住んでおらず、直接的な利害関係も無いのに、自然な成り行きを考慮せず、そこの生態系に手を加えた場合、『不自然な干渉=自然を弄る』となります。


>「超越した存在・神の信託管理人気取りで生態系を好き勝手に弄る」などと言われる行為すら、世界の一部であり結果なのです。それを、「人間の理想よりも原初より積み重ねられた自然の摂理に重きを置くべき」という好みに依った考えに則って、『人間の思い上がりだ』などとと蔑視するのは単なる荒唐無稽な感情論です。曖昧な故に機能性に欠けた説得力のない主張です。ですからナウシカの主張も墓所の主張も単なる好みであり、説得力を感じられません。

確かに人間は感情の動物で、最終的には好き嫌いで物事を決めているとも言えます。しかし、その判断材料となる認識が十分に論理的なものなら、それを『荒唐無稽な感情論』と断ずる事は出来ません。
また、ナウシカは自分を自然の一部と認識しており、ナウシカの立場にしてみれば、自分たち(現生態系)が必死に生きているのに、それを無視して勝手に自分たちを作り変えようと計画している墓所に対して、当事者として怒りを覚えるのは当たり前です。あなただって、あなたの意思を無視されて人生を決められたら反発したくなりませんか? つまるところ、これは『支配しようとする者』と『それに抗う者』の対立であり、どちらが正しいとか説得力があるとかいうものでもありません。ただ、我々一人一人がどちらの立場に感情移入するか、それだけの問題です。それを判断するために、まずはそれぞれの論理を理解しようというのが当サイトの主旨なのです。


>つまり、宮崎駿は、「神の信託管理人気取りで遺伝子工学を用いて生態系を好き勝手に弄る行為」を思い上がりだと蔑視しているわけですね。繰り返しになりますが荒唐無稽な感情論です。そのため全く説得力が感じられません。(例えば遺伝子工学によって生態系が乱れ?、人間に害が及ぶ?とかいう予想を再現性を持って証明することで警鐘を鳴らすのであれば理解・納得できますが。)

我々、日本人の近くにも現実に『神の信託管理人』を気取った輩は存在しています。シー・シェパードなどはその一例と言えるでしょう。彼らと太地町の漁師との対立は、墓所とナウシカの対立と似通っている部分があります。太地町の漁師たちは自分の生活の為にイルカを獲っていますが、シー・シェパードは思想的な理由でイルカ漁を辞めさせようとしています。彼らはどちらも好きとか嫌いなどという次元ではなく、それぞれの立場上、当然の事をやっているだけなのです。そして、第三者から見てどちらが正しいかなど、彼らにはどうでもいいことなのです。
ナウシカも自分の決断を正しい事だとは言ってません。「自分の決断が人類を滅ぼすかもしれない」という葛藤すら感じています。それでも、墓所の論理と世界の秘密を理解した上で、『心のままに』決断を下したのです。このような、論理だけでも感情だけでもなく、両方が深く融合した思考こそ、人間だけが持っている素晴らしい機能だと私は考えています。

最後に一つだけ。
あなたにはあまりに性急かつ強引に物事を断じてしまう傾向があるように思います。書いていることも、最初は人間の論理を否定しておきながら、その後で感情論を否定したりと、民主党の政権批判と一緒で、一体どこに軸があるのか全く見えてきません。主張の一つ一つを見ても、学術的な基礎がまるで欠けています。にもかかわらず、ご自分の考え方に対して根拠のない自信を持っておられる。でもそれは錯覚です。
自分の思考を過信せず、謙虚な姿勢で、もっと様々な立場の様々な意見に目を向け、先人の残した知恵を学び、多くの経験を積み、物事を多元的に深く理解出来るようになってから結論を出すように心がけてください。ついでに、もっと本を読んで、日本語の表現力も磨いてください。

Re: ナウシカにも墓所にも共感できない1 - アホガラス

2015/03/20 (Fri) 23:28:53

ご無沙汰しておりました。アホガラスです。
虚無さんと管理人さんのやり取りはまるでナウシカと墓所の主かと思いました。
お二方とも教養があってしっかりした考えの持ち主だと思います。
学歴のない私には理解出来ないところが多いです。
ただ、私には自分の考えが正しいと固執してしまって他者を受け入れられなくなている
ように見受けられました。
私はナウシカという物語から、「清浄と汚濁こそ生命」ということを学びました。
「誤ちを犯すからこそ生命である」ということに衝撃を覚えました。
だからこそ人間は考え続けなければならない。
お二人のやり取りはまさにそれです。
不完全であるからこその喜びや悲しみ…。
自分が何を言っているのかよくわからなくなってきました。
最近、仕事が忙しくて物思いに耽る時間がありませんでしたが
久しぶりに「風の谷のナウシカ」を読み返してみたいと思います。
これからもこの作品を通していろいろと意見を交わせたらと思います。
尚、お酒を飲みながら書き込みしています。
変なことを口走っていたらすみません。
話の腰を折ってすみませんでした。

Re: ナウシカにも墓所にも共感できない1 - 虚無

2015/03/24 (Tue) 17:29:44

 管理人様、お返事ありがとうございます。
 私が言葉足らずなせいで色々と誤解をさせてしまっているようで、申し訳ありません。
 
 しかし、私という人間自体へのお説教というか、批判めいたものは(ありがたいのですが)議論のためにはそれこそ不毛なので、管理人様のためにも慎まれた方がよろしいかと思います。と言いますのは、発言者の人間性や経験などとは無関係に主張内容を受け取らないと、本質的な議論が成立せず、さらにはまるで本質的な議論を避けたいかのように受け取られてしまいかねないからです。
 私から見て管理人様は、失礼ながら経験や知識が豊富(?)であるが故に、その概念に踊らされているように感じられますが、私は管理人様の経験や人間性などは気にせずにその主張の本質を理解しようと考えています。
 (余談ですが私の職場はホワイトな方だと思います。冒頭の件ですが「権力によるゴリ押しがまかり通った」とは、「権力によって責任の所在が明確にされた」、ということですよね。方法はどうあれ「問題が起こった時に上下関係の境界を明確にする」という考え方が前提にあった結果、というわけですね。あと、スペクトラムの下りは、「両者の境界を明確に設定しないと、上下関係や区別は機能しないものだ」と同義のものです。)

 私のした質問に対する答えに、
>人間も生態系の一部として活動しているのだから当然「適応」です。仮に人間がそこに住んでおらず、直接的な利害関係も無いのに、自然な成り行きを考慮せず、そこの生態系に手を加えた場合、「不自然な干渉=自然を弄る」になります。
 とありますが、すべての物質は必ずどこかで影響し合います。ご存知かと思いますが、どんなに距離が離れていても無関係ということはありません。自然とは人間を内包した地球全体、あるいは宇宙全体です。「人間がそこに住んでおらず」とか「そこの生態系」という言い回しの「そこ」とは、どういった理由でどのくらいの規模を指して言われているのでしょうか? 例えば一つの水域で魚が大量に死んでも微生物は増えるかもしれませんし、隣合った水域ではまた別のことが起きるかもしれません。限定したり、境界を明確にできるものでしょうか? いいえ、できません。同様に「直接的な利害関係」とは? 好みや(管理人様の言われる)立場抜きで、再現性及び説得力を持って示していただければ幸いです。不可能だと思いますが。

 私は、管理人様の言われる自然・生態系とそうでないものを人間が明確に区別できない以上、「自然:人間」や「適応:自然を弄る」といった区別を明確に機能させるために必要な説得力のある基準など設定できないじゃないか、と言いたいのです。

 加えて言いたいのが、
 どちらを重視・優先すべきか、といった思考に関して、その優先順位の基準や両者の境界が曖昧で、好みや(管理人様の言われる)立場に依る場合、一貫性・再現性・客観性に欠けた機能しかしないため、説得力がありません。”人によって変わる”主張には納得できません。
 自然と人間を「別次元で考え」ようとしようが、「一つのシステム内の上下構造であり別個の存在ではない」と考えようが、どちらかを(一貫性・再現性・客観性を持たせて)重視・優先するために必要な明確な基準・境界は見出されず、曖昧なままだと言いたいのです。説得力を認めません。
 管理人様の言われる「ミクロからマクロに階層的に捉えた時の枠組みの大小」といった思考に則って、例えば「大きいのだから大きい方を重視しよう」だとか「小さいのだから小さいものが思い上がってはいけない」といった考え方も、人の好みや立場に依るものであり一貫性・再現性・客観性に欠けた機能しかしないため、説得力がありません。『論じる際に「マクロな階層の方を重視するという立場」にいるので、自分は大きい方を重視します』という主張ではただの妄信ですよね。「AだからAなんです」「これはそういうものなのです」では頭が働いていません。

 優先順位の基準・境界が曖昧だからこそ、ついつい好みや立場に依ってしまう部分もあるのでしょうね。


 言葉とは、太古より人類が生活の中で脳の働きによって『知覚した』様々な事象や普遍性を論理的に扱い疎通するために便宜上つけた名前であり、その対象である事象や普遍性などが「存在するという仮定の上で」成り立っているものです。人によっては神や幽霊も間違いなく存在する(と仮定されている)のです。「愛」「魂」「生」「死」「生態系」なども同様です。管理人様も御存知と思いますが、人は自分達の培った言葉の仮定性、曖昧さに踊らされてしまう場合があります。
 私は言葉が出来る前の状態に立ち返って考えることで、世界を無機とも有機とも捉えていませんし、あるいは無機でもあり有機でもあるとも考えることができます。仏教で言う「空」だとか、「根本から柔軟に考えている」、などと言えば伝わりやすいでしょうか? 何も考えていないわけではありません。人間が言葉を作る前に戻って考えることで、言葉の仮定性、曖昧さに踊らされないようにしているのです。

 仰るとおり、人間の思考は不完全な言葉によって成り立っています。だから故に、繰り返しになりますが、言葉の意味・イメージに踊らされてしまう場合があるのです。言葉による思考が、その基準や真偽が曖昧なままで人間の好みや立場を理由に動かされ、実際に機能してしまい、暴走してしまう (その後になって暴走していたことが判明します)。人類の歴史に鑑みてもそのような事例が多々ありますよね。 

 ナウシカも墓所も暴走してしまいました。

 私は言葉そのものや言葉による思考を否定しているわけではありません(ですから自己矛盾しておりません)。曖昧な言葉に踊らされ、思考とそれに則った行動が暴走してしまうことを防ぐ必要があると考えているのです。一旦話がそれますが、そのためには、曖昧な言葉ではなく社会を構成する人類の根源的な生存欲求を見出す必要があると考えています。

 社会性や理性を失った時、人は社会を構成できなくなります。社会の維持は文明社会を生きる人間であるために不可欠です。(言葉でしか伝えることができないので私は言葉に踊らされないように慎重に説明しています。きちんと読んで、頑張って考えて頂ければ納得に至るかと思います。)
 例えば、「死」や「苦」がなくならないものであっても、なるべく回避したい、と思うのは社会を構成する人類の根源的な欲求の一つです。皆、なるべく充実して楽しく生きたいので、『「死」や「苦」があるから生や喜びが輝く』とはいえ、重大な「苦」や「死」はやはりなるべく避けたいわけです。そういった欲求に従い(管理人様の言われるように)言葉も含んだ不完全な技術を駆使して人類は社会・文明を発達させてきました。(これは歴史が証明している、と言っても誰も反対されないと思います。)
 どのくらいの水準のどのような生活様式を基礎とした文明共同体に属したいかは個人個人の自由ですが、重大な「苦」や「死」をなるべく避けて社会的に協力し合って暮らしたいのは誰にでも共通の感覚であり根源的欲求です。これを否定してしまうと、文明社会が成立しなくなり、未開の山林などで動物的に生活しなればなりません。文明社会で生活する限り、否定できない欲求です。「苦や死をなるべく避けて社会的に生きる精神」は、群れで生活することから始まって文明社会を築き、社会的に生きてきた人類の脳に、「言葉による思考とほぼ同時に育っていったもの」と考えていいでしょう。(それが乏しい精神状態に陥ったならば、精神医学的に「病気」と呼ばれうる“社会的に健康ではない状態”です。多数の人類がそうなってしまったならば社会が維持できなくなるため、社会的観点からかつ精神医学的観点から、治療による修正が必要になります。)

 可能な限り、考え方や優先順位などの真偽・基準を明確にし、「思い上がりだ」だの「蔑視だ」とかいった感情的で独善的な好みや立場に依らず、社会を構成する人類の根源的な生存欲求に根ざした思考を展開し、慎重に行動に移すべきだと言いたいのです。これは単に私個人の独善的な好みや立場に過ぎないというわけではありません。なぜなら「社会を構成する人類の根源的な(否定すれば社会性が失われる)生存欲求に根ざした思考」を目標に据えているからです。


 上記をふまえまして、
 例えば、『遺伝子工学によって生態系が乱れ、巡り巡って人類に害が及ぶ?とかいう予想を再現性を持って証明することで警鐘を鳴らす』のであれば、説得力が感じられます。それはなぜか? 重視されたのが、「自分達に害が及ぶのは嫌だ」という明確な人類の根源的欲求と、再現性を持った証明であり、言葉に踊らされた曖昧な基準に則った思考や、感情的で独善的な好みや立場に依って“いない”からです。しかし、それでもまだ不完全かもしれません。それでもなお完全を目指し続け慎重に考え続けるべきなのです。不完全では暴走する危険性があるからです。そして、現象・技術をその存在そのものではなく、「在り方」「使い方」に重点を置いて見定めるべきなのです。

 しかし、ナウシカも墓所も、「人の理想と生態系のどちらを重視するか」という曖昧な基準及び言葉に踊らされた再現性に欠ける思考を展開し、さらにそれを機能させるために「お前は闇だ」「思い上がりだ」「蔑視だ」などと感情的で独善的な好みや立場を理由にしました。(私が「宗教めいている」と言ったのはそのためです。) さらに墓所は暴走し価値観を暴力的に強要、ナウシカも「作り変えられたい人」の存在を無視して墓所に対して攻撃的な物言いをしていました。これも暴走です。
 ですから、ナウシカや墓所の思考・行動は曖昧な言葉によって踊らされた思考・行動の暴走であり、共感できず、とてもじゃありませんが感情移入などできません。


 立場や好き嫌いや「心のままに」などを理由にしたような感情と、論理が融合した思考・行動は前述の理由で暴走してしまう危険性があります。いくら思索を巡らせても「立場上、当然のことをやっている」だとか「自分の心のままに」で最終的な行動を決めてしまっては、不完全なままで機能させるために好みや立場を理由にしたも同然です。
 だから故に、(ナウシカの葛藤や、人間の機能が「素晴らしい」だとかいった管理人様の陽性感情はまあ置いといてですね、)
 『立場や好みなどの感情を理由にせず「社会を構成する人類の根源的欲求という精神」に根ざし、再現性のある明確な基準に則って機能する思考を目標に据え、その思考でもって文明社会の進路を慎重に考える姿勢』を持つべきだと、
私は「風の谷のナウシカ」という漫画を読んで、改めて感じさせられました。
 ナウシカや墓所もそういう姿勢を持つべきだったと思います。


 いかがでしょうか? 
 私は常に自分の感じ方・考え方を更新したいと考えています故、どこか不合理があればご教示いただければ幸いです。
 ではまた、お返事お待ちしています。

Re: ナウシカにも墓所にも共感できない1 - 虚無

2015/03/24 (Tue) 21:37:13

アホガラス様

私が言うのは変かもしれませんが、コメントありがとうございます。
お互いが他者を受け入れられないと言うよりは誤解があるのではないかと考えています。
今後も議論していきたいと思います。

私が言いたいことを短くまとめますと、

「例えば苦を緩和するような、人類にとって有意義な進歩を慎重に全員で模索しよう。」
「その際、曖昧な言葉に扇動されたり、自分の好みや立場を押し付けるのは控えるよう」

といった形になるかと思います。

Re: ナウシカにも墓所にも共感できない1 - ACE@管理人室

2015/03/27 (Fri) 07:53:56

>> 虚無さん

申し訳ありませんが、今回も多少刺々しい感じになってしまいました。ただ一つだけご理解いただきたいのは、私の目的はあくまでも生産的な議論をする事であって、全ての主張はその目的に沿ったものである、という事です。では、始めます。


> 私から見て管理人様は、失礼ながら経験や知識が豊富(?)であるが故に、その概念に踊らされているように感じられますが、私は管理人様の経験や人間性などは気にせずにその主張の本質を理解しようと考えています。

私も経験や知識を絶対視する訳ではありませんし、直感やイマジネーションの重要性も分かっているつもりです。それでも知識と経験が理論構築にとって最も重要な要素である事は間違いないと思っています。それに「概念に踊らされる」のは、「ある特定の主義や思想に固執した時」であって、知識や経験の量とは全く関係ありません。むしろそれらが乏しい者ほど、ちょっと聞きかじった思想に簡単にハマるものです。ついでに言うなら、知識や経験を軽視する人には、自分の知識・経験に自信が無い人が多いものですが、自信が無いなら勉強すれば良いのです。努力もせずに努力の成果を否定するのは、怠惰に他なりません。


> 余談ですが私の職場はホワイトな方だと思います。冒頭の件ですが「権力によるゴリ押しがまかり通った」とは、「権力によって責任の所在が明確にされた」、ということですよね。

どう読んだらそうなるのか分かりませんが、全く違います。ブラック企業なんかでは、責任の所在が曖昧なところが多い、という意味です。失敗は部下の責任、成功は上司の手柄、なんて聞いたことないですか?


> すべての物質は必ずどこかで影響し合います。ご存知かと思いますが、どんなに距離が離れていても無関係ということはありません。自然とは人間を内包した地球全体、あるいは宇宙全体です。「人間がそこに住んでおらず」とか「そこの生態系」という言い回しの「そこ」とは、どういった理由でどのくらいの規模を指して言われているのでしょうか?

それは「人類の起源は同じなのだから、英国王室はうちの親戚だ」というのと同レベルの詭弁ですよ。「全ての物質は必ずどこかで影響し合う」というのは否定しませんが、明確な基準が無いからと関係性の大小を度外視して、1も100も同列に扱うのは常識的にあり得ません。
また、おたずねの「そこ」の示す範囲ですが、その時に対象としている生態系次第です。一つの島の生態系から大陸規模、果ては地球規模まで、無限の枠組みが想定できるでしょう。それぞれの境界は数学的に明確なものではありませんが、例えばジャングルの生態系を調査している時に、遠くの海まで調査対象に含める事は、常識的に考えて、まずありません。どこまで範囲に含めるか、には議論の余地があるでしょうが、別に万人が同意しなくてもおおむね大多数が納得できる「妥当な」ラインであれば、十分科学的根拠は認められます。
もう一度言いますが、規模は目的によって決まります。そして、境界は便宜上、妥当と思われるものが設定されます。これが常識です。


> どちらを重視・優先すべきか、といった思考に関して、その優先順位の基準や両者の境界が曖昧で、好みや(管理人様の言われる)立場に依る場合、一貫性・再現性・客観性に欠けた機能しかしないため、説得力がありません。”人によって変わる”主張には納得できません。

人によって主張が変わるのは「当たり前」です。「当たり前」を「当たり前」と認識できないのは、事実と異なる概念に囚われてるからです。


>自然と人間を「別次元で考え」ようとしようが、「一つのシステム内の上下構造であり別個の存在ではない」と考えようが、どちらかを(一貫性・再現性・客観性を持たせて)重視・優先するために必要な明確な基準・境界は見出されず、曖昧なままだと言いたいのです。説得力を認めません。

これまでに何度も「説得力が無い」と繰り返しておられますが、そこが全ての思い違いの元です。「説得力がある事」と「事実である事」は、全く別の事です。大昔の天動説など良い例ですが、全ての人間が事実と異なる事を信じているケースなど珍しくないのです。そもそも、普遍的で客観的な説得力を持った論理など実現し得ると思ってるんですか? それ以前に、絶対的な客観性が認識し得ると思ってるんですか? 主観しか持ち得ない我々「個」が認識できないからこその「客観」なんですよ? 物事の認識とは、「唯一の絶対的な客観」によってもたらされるものではなく、「様々な視点からの主観」によって多面的に捉えるものなのです。
大事な事なのでもう一度言います。あなたにとって「説得力が無い」というのは、問題ではありません。なぜなら、「あなたの認識=事実」では無いからです。


> 管理人様の言われる「ミクロからマクロに階層的に捉えた時の枠組みの大小」といった思考に則って、例えば「大きいのだから大きい方を重視しよう」だとか「小さいのだから小さいものが思い上がってはいけない」といった考え方も、人の好みや立場に依るものであり一貫性・再現性・客観性に欠けた機能しかしないため、説得力がありません。

個人は社会より自己を優先し、社会は個人より社会を優先する。これは好みでも考え方でもなく、個人と社会それぞれの単なる『特性』です。もし「社会の利益」か「自分の個人的幸福」のどちらかを選ぶなら、後者を選ぶのが生物として自然です。しかし、これが「社会の利益」と「誰かの個人的幸福」だったなら、前者を選ぶでしょう。なぜならこの時、自分=社会だからです。このように立場によって主張は変わり、そういった個人の集合体が社会である以上、あらゆる立場の個人や集団に同一の行動理念を求めるのはナンセンスなのです。


> 優先順位の基準・境界が曖昧だからこそ、ついつい好みや立場に依ってしまう部分もあるのでしょうね。

根本的に勘違いしてるようですが、優先順位は立場や視点によって決まるものです。個人は自己の幸福を最優先に、集団は集団の維持を最優先に、国家は国家の存続と繁栄を最優先にした論理で活動します。その基準・境界は明確なものです。


> 私は言葉が出来る前の状態に立ち返って考えることで、世界を無機とも有機とも捉えていませんし、あるいは無機でもあり有機でもあるとも考えることができます。仏教で言う「空」だとか、「根本から柔軟に考えている」、と言えば伝わりやすいでしょうか? 何も考えていないわけではありません。人間が言葉を作る前に戻って考えることで、言葉の仮定性、曖昧さに踊らされないようにしているのです。

仏教の「空」という表現で、何となくあなたの思考がイメージできたような気がしますが、同時にあなたがご自分の論理すら理解していない事も分かりました。確かに仏教は、この世が常に移り変わる「実体の無いもの」であると考え、現世への執着を捨てるよう諭しています。しかし、ハッキリ言って、その認識からは何も生まれませんよ。現象への執着を断つのは心の平穏のためであり、世界の理解を深めるためでは無いからです。「個」の思考を捨て、意識を世界と一体化し、あらゆる現象に意味を与えず、ただ風に吹かれるようにそれらを感じる―――それはまさに「上人のような在り方」だと言えますが、そういうのは『悟性』と呼ばれ、理性とは真逆のものです。悟性は例えば、禅や祈り・瞑想などによって求められ、同じく心の平安を目的とする『宗教』と本質的に通じるものがあります。あなたがどのような考え方をしようと結構ですが、結局のところ、それは『自己完結』を目指したプロセスなので、「事実とか現実とかはどうでもいいから、自分が納得できるものが真実」という極めて非論理的・非生産的で、当人以外には何の価値も無い思考である事をご理解ください。ましてや「誰にも反対されない機能」「誰もが納得する説得力」など望むるべくもありません。


> 仰るとおり、人間の思考は不完全な言葉によって成り立っています。だから故に、繰り返しになりますが、言葉の意味・イメージに踊らされてしまう場合があるのです。言葉による思考が、その基準や真偽が曖昧なままで人間の好みや立場を理由に動かされ、実際に機能してしまい、暴走してしまう (その後になって暴走していたことが判明します)。人類の歴史に鑑みてもそのような事例が多々ありますよね。 

ナチスやポルポト、スターリンや毛沢東などを念頭に仰っているのでしょうか。それとも、アルカイダやイスラム国でしょうか。いずれにせよ、これらは言葉が不完全だったからでなく、彼らの思考にそもそも問題があったのです。言葉は道具なのですから、全ては使う人次第。つまり、彼らの暴走は不完全な言葉のせいではありません。


> ナウシカも墓所も暴走してしまいました。

確かに勝手に世界を作り変えようとした墓所の計画も、勝手に人類の未来を決めてしまったナウシカの行動も、他者から見れば「暴走」と言えるかもしれません。しかし、これも不完全な言葉やイメージに踊らされたからではなく、それぞれの立場において当然選択すべき選択をした結果でしかありません。また、どちらも後先考えずに行動した訳ではなく、その後どうなるかを認識した上での確信犯的な行動でした。ですから、「暴走してしまった」という表現は適切ではないと思います。ナウシカが独断的に決めてしまった事を批判する意見もありますが、あの場では墓所に服従するか対立するか、どちらにせよナウシカが代表して選択せざるを得ませんでした。それに実際は、プロセスが民主的か専制的かは大した問題ではないのです。問題になるのは選択が正しいか正しくないかであって、ナウシカの選択が正しいと考える人は彼女の行動を支持するでしょうし、そうでない人は彼女の独断を非難する、というだけの話です。


> 社会性や理性を失った時、人は社会を構成できなくなります。社会の維持は文明社会を生きる人間であるために不可欠です。(言葉でしか伝えることができないので私は言葉に踊らされないように慎重に説明しています。きちんと読んで、頑張って考えて頂きたいです)

順序が逆です。人は自らの生存の安定と幸福のために社会に属し、その過程で社会性や倫理を獲得したのです。「生存の安定と幸福」が目的であり、集団への所属はそのための手段であり、社会の構成はそれらの結果です。これ以降もおっしゃる通りに頑張って考えてみましたが、あなたの論理の穴しか見つかりませんでした。


> どのくらいの水準のどのような生活様式を基礎とした文明共同体に属したいかは個人個人の自由ですが、重大な「苦」や「死」をなるべく避けて社会的に協力し合って暮らしたいのは誰にでも共通の感覚であり根源的欲求です。

苦痛や死の緊急回避は根本的欲求ではありますが、社会的欲求は違います。協力し合って暮らすのは、生存の安定や快適さを得るための手段であって、それが目的ではありません。生活の豊かさに反比例して周囲との人間関係が希薄になる先進国の現状が、それを如実に示しています。


> 可能な限り、考え方や優先順位などの真偽・基準を明確にし、「思い上がりだ」だの「蔑視だ」とかいった感情的で独善的な好みや立場に依らず、社会を構成する人類の根源的な生存欲求に根ざした思考を展開し、慎重に行動に移すべきだと言いたいのです。これは単に私個人の独善的な好みや立場に過ぎないというわけではありません。なぜなら「社会を構成する人類の根源的な(否定すれば社会性が失われる)生存欲求に根ざした思考」を目標に据えているからです。

そもそも人間の欲求について、正しく認識しておられないようですね。欲求構造の自分勝手な解釈から派生した主張は、あなた個人の独善的な好みに過ぎませんよ。欲求について語るなら、最低限、マズローの欲求階層説くらいは目を通してください。


> 例えば、『遺伝子工学によって生態系が乱れ、巡り巡って人類に害が及ぶ?とかいう予想を再現性を持って証明することで警鐘を鳴らす』のであれば、説得力が感じられます。それはなぜか? 重視されたのが、「自分達に害が及ぶのは嫌だ」という明確な人類の根源的欲求と、再現性を持った証明であり、言葉に踊らされた曖昧な基準に則った思考や、感情的で独善的な好みや立場に依って“いない”からです。

段々突っ込むのも面倒くさくなってきましたが、「自分達に害が及ぶのは嫌だ」というのは、メチャメチャ感情的で独善的で自分という立場から発せられた意思じゃないですかね? 仮にこれがOKなら「自分の精神と体を改造されたくない」というナウシカたちにも、明確な人類の根源的欲求だか再現性とやらもあるんじゃないですかね?


> しかし、ナウシカも墓所も、「人の理想と生態系のどちらを重視するか」という曖昧な基準及び言葉に踊らされた再現性に欠ける思考を展開し、さらにそれを機能させるために「お前は闇だ」「思い上がりだ」「蔑視だ」などと感情的で独善的な好みや立場を理由にしました。(私が「宗教めいている」と言ったのはそのためです。) さらに墓所は暴走し価値観を暴力的に強要、ナウシカも「作り変えられたい人」の存在を無視して墓所に対して攻撃的な物言いをしていました。これも暴走です。

両者がそれぞれの主張を貫こうとした結果です。あの状況でナウシカには、墓所の存在を許容するか否か、という二つの選択肢しかありませんでした。「作りかえられたい人」の存在を考えようが考えまいが、二つに一つなのです。そもそもナウシカは、墓所から漏れた技術によって粘菌やヒドラといった実害が出ていたから墓所を封印しに行ったんですよ? 墓所の言動に関わらず、封印は始めから決定事項だったのです。しかし、墓所は当然そんな事受け入れるはずがありませんよね。根本的に相容れない上、共存も出来ないのに、まだ八方丸く収まる方法があったなどと言われるのでしょうか?
異なる存在が異なる考えを持ち、ぶつかり合うのは、誰でも分かる当たり前の事です。ただ、ぶつかり合う事にはリスクがあるので、普通は可能な限り譲歩し、衝突を極力避けようという知恵が働いているだけです。それでも、どちらもこれ以上譲歩できない、という所まで来てしまったら、当然ながら衝突は必至なのです。


> 立場や好き嫌いや「心のままに」などを理由にしたような感情と、論理が融合した思考・行動は前述の理由で暴走してしまう危険性があります。いくら思索を巡らせても「立場上、当然のことをやっている」だとか「自分の心のままに」で最終的な行動を決めてしまっては、不完全なままで機能させるために好みや立場を理由にしたも同然です。

あなたの論理はまるで全体主義ですね。人間の自由な思考を認めないのですか? 個人が他者や全体の都合を無視して行動する事は許されないのですか? もしそれを「暴走」と呼び、その芽を摘もうとするならば、そこは牢獄のような管理社会になる事が想像できませんか?
人間には自由が認められなければなりません。たとえそれが社会にとってのリスク要因であったとしても、です。また、他者よりも自分を優先する権利は、法律でも認められています。なぜなら、それが生物として自然な在り方だからです。前回も書きましたが、自然とはあらゆる生物がそれぞれの立場で利己的に生きた結果なのです。そこに説得力など求められていないのです。ですから人間もただ「心のままに」生きればいいのです。


> しかし、私という人間自体へのお説教というか、批判めいたものは(ありがたいのですが)議論のためにはそれこそ不毛なので、管理人様のためにも慎まれた方がよろしいかと思います。と言いますのは、発言者の人間性や経験などとは無関係に主張内容を受け取らないと、本質的な議論が成立せず、さらにはまるで本質的な議論を避けたいかのように受け取られてしまいかねないからです。

これまでのが不毛ではない議論だと思っているなら、それこそ大きな勘違いです。あなたはこちらの指摘をほとんど無視するか、理解せずに見当外れの反論を僅かながらしてるだけで、他は論理とも呼べないような思い込みを書き連ねているだけではありませんか。こんなものは議論とは呼べませんよ。そう感じたから私は前回、議論に最低限必要なルールや姿勢をあなたに求めたのです。失礼ながら、あなたはこれまで誰とも本当の議論をした事が無いのではないでしょうか。議論が成立したと思っているのは、あなただけなのではないでしょうか。

議論とは本来、意見交換によって相互に認識を補完しあい、協力してより高い論理段階へ進むことを目的とした生産的な作業です。(相手を屁理屈でやり込めて、優越感に浸るのが目的ではないのですよ) そして、それにはまず相手の思考をトレースし、その主張を理解しなければなりません。その際に重要なのは、相手の思考の土台を理解する事です。同じ言葉でも学問の分野によって意味が全く異なるので、まず相手の論理の土台となっている学問や理論を把握し、相手がその言葉をどういった意味で用いているのか理解する必要があるのです。しかし、そういった基礎を持たない人間は、言葉の本来の意味や普遍的な概念を無視して自分勝手な使い方をした結果、他人にとっては暗号にしか見えない文章を作ってしまうのです。(あなたが何度も使っている「再現性」という単語など、その最たるものです)

あなたの論理の欠陥は、理論構築のプロセスにある、と言えます。あなたはこれまで独自に思考を積み重ねてきたのでしょう。仮説を立て、検証し、修正し、結論付ける、という一連の作業を全て一人で繰り返してきたのだと推測します。しかし、一人の作業であるにもかかわらず、判断材料となる知識が乏しいため、理論が正しいかどうかの判断基準を、あなたは自身の感覚に頼るしかありませんでした。これが、あなたが「説得力」なるものにこだわる理由です。問題はあなたが他の論理的手法を知らないため、議論の場でも同じように自分が納得できるかどうかを、相手の主張が正しいかどうかの判断基準にしてしまっている点です。これが知識を軽視した結果であり、あなたの認知的な限界なのです。一人で自己完結する分には知識など無くても支障はありませんが、他者と議論し、より高い次元の論理へ発展するためには必要なものです。そして、あなたの知識はこの種の議論に最低限必要なレベルに達してないのです。だから生産的な議論と、何よりあなた自身の認知的成長のために、まずは勉強してください、と言っているんです。あなたを見下して言っている訳では無く、思考レベルの向上にとって、古今東西の賢人達の思考を学ぶ事がとても有効だからです。総じて、あなたや私に考え付く程度の事など、とっくの昔に誰かが既に考えているものです。自分の考えを整理したり客観的に見直すためにも、また、自分には思い付かないような発想を取り込むためにも、謙虚な姿勢である事が重要なのです。もしあなたが口だけでなく、本当に自己を向上したいと考えているなら、それが出来るはずです。



>> アホガラスさん

ご無沙汰しております。何やら気を遣っていただきまして、ありがとうございます。
もし私が自分の考えに固執してしまっているように感じさせてしまったのなら、主張を分かりやすく書けなかった私の落ち度として反省したいと思います。まぁ、それでも人間には自己一貫性動機というものがありますから、持論に全く固執しないというのも難しい事かと。それに論理は論理ですので、明らかな誤りがあるのになあなあにするのもどうかと。
ただ、字面は硬いかもしれませんが、内容そのものは教養とはあまり関係無い、普通で当たり前の事だと思います。そもそも私にも自慢できるような学歴などありませんし。ですので、お気軽にまた思った事や感じた事を書いていただけたらと思います。

Re: ナウシカにも墓所にも共感できない1 - 名無しの谷の

2017/08/19 (Sat) 23:31:22

ナウシカの言は言い換えるとヘルシングでインテグラが言った「人間を舐めるな化物め、来い戦ってやる」
と今を生きる者の矜持で未来に対する物ではありません。
移ろい変わる今を輝かせる事を選んだナウシカと、未来への祈りで作られ火の七日間の頃に描いた未来を目指し続ける墓所では本質的に交わる物では無いです。
墓所は火の七日間の頃の価値観でしか判断が出来ませんし、ナウシカの時代には墓所の過去の価値観が害悪と化していただけではないでしょうか。
墓所もナウシカも価値観、主義主張の違いだけで善悪は無い気がします。
作中でナウシカに付いて行くために蟲使いが相棒兼商売道具の蟲を逃がした所でこいつ等は野生では生きて行けないと泣く泣く手に掛けています。ナウシカも新人類は墓所の手助けが無ければ生きて行けないと墓所と共に消す事にしたのではないでしょうか。
ナウシカの新人類抹殺も相棒を殺した蟲使いを間に挟んで見ると見え方が変わる気がします。

Re: ナウシカにも墓所にも共感できない1 - Ace@管理人室

2017/08/20 (Sun) 18:43:57

全面的に同意します。
両者の対立は『善悪の対立』ではなく『価値観の対立』でした。その証拠に、作者は『善』や『悪』といった言葉を全く使っていません。価値観の対立は相互理解と歩み寄りによって解決できる事もありますが、この場合、相手は「変われない」墓所ですから、殺し合いの他に方法は無かったでしょう。

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